自己表現と支えられた孤独

幼い時に描いた絵から始まり授業での図工、そして美術の時間は自分しか持ちえない自分のセンスを発揮する場でもあった。高校を出て美術とは関係のない大学に進学した。卒業してアパレルの会社に就職した。そこでMacintoshというパソコンに出合い、再び自分のセンスを表現することに目覚めてしまった。

自分のセンスを表現するというのは内なる世界を表現する、つまり自己表現するということだ。それは、美術に始まりその後のwebデザインという仕事にも繋がった。そして25年前に趣味として始めた写真という芸術にも出合った。いずれも自分の内面を、内側から表に出すものだった。

長く続けている自己表現と孤独について書きたいと思う。

自分は早くに父を亡くし、そのあとは母親と兄と共に生活を育んだ。父も美術的な感性があった。母もその感覚においては、父と同様それ以上もものがあったと思う。

そんな母は、自分の自己表現である絵やデザインや写真についての一番の理解者だった。作品の善し悪しに迷った時、良い作品が出来た時に、よく意見を聞いたものだった。そして特に良いものが出来た喜びを分かち合うのは、理解者である母だった。

宮崎智之氏が編まれた『精選日本随筆選集 孤独』に収録されている福永武彦氏の「内なる世界」という作品から引用する。

例えば母親が死ぬという経験。それは誰でもが知っていることだし、一つの普遍的な悲しみとして納得してしまえばそれで済む。が、理性がどのようになだめようとも、母親は常に一人であり、この一人はかけがえがない。その場合に、子供の方の愛は、母親が死んだからといって消滅するわけでない。いな、それはこうした契機によって、一層高まり、鋭く心を突き刺す。しかしその時の傷は、自分はまだ母親を愛しているのに、それに応えてくれるべき愛がないということだ。子供の心の中に母親の愛の占める部分はちゃんと残っているのに、肝心の愛は欠け落ちてしまった。その空虚感が、孤独となって彼の意識を鎖してしまう。

実際、昨年の夏に自分は良き理解者であるたったひとりの母を病気で失った。それでも自分は自己表現を今も続けている。こうしてエッセイを書くことも、大切な自己表現だ。それは、美術的なものに留まらない。自分の内面から発せられる言葉、エッセイであっても自分だけの感性を表すことになるのだ。

引用した福永氏のエッセイは、まさに今の自分にとってタイムリーであった。

母という良き理解者と併走しながら自己表現をしてきたはずだった。しかし今の自分は、死によって母の愛が欠け落ちてしまったかといえば、そうは言えないと思う。母を失ってしまったが、自分の中に宿す表現の源は生みの親である母の存在を感じさせるものだからである。現在家族は自分ひとりではあるが、自分の内に母そして父ふたりの心を内に秘めている。そのふたりを失ってしまった今であるが、その記憶がある限り共に伴走している気持ちである。

作者はこう結ぶ。

人は愛があってもなお孤独であるし、愛がある故に一層孤独なこともある。しかし最も恐るべきなのは、愛のない孤独であり、それは一つの沙漠というに過ぎぬ。

母が亡くなったあとの想像していた凍るような孤独と、実際にかけがえのない母を亡くしてから向き合った現在の自分の孤独。今感じているのは、それはそのような冷たい孤独ではなかった。それは生前の母の愛がそれに余るほどの熱量を宿していたからなのだろう。自分はひとりきりになってしまったが、その温かみを今でも内面に感じるのだ。それは決して沙漠ではないはずだ。

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最終更新日 2026-01-31 by Sasao

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