FUJIFILM X-E5

  • 新刊 初エッセイ集 ZINE『曇り空の場所』の紹介

    新刊『曇り空の場所』

    エッセイスト・ササオタツヤの
    初めてのエッセイ集『曇り空の場所』。
    歩くようなエッセイ、全25篇を収録。
    A6・文庫本サイズ 122ページ。

    2026年5月4日、文学フリマ東京42 ブース番号【そ-36】で初めて頒布します。

    写真、読書記録、エッセイ。
    自己表現のかたちは変わりながらも、
    長年向き合い続けてきたテーマは「曇り空」でした。

    書くことの原点、母との記憶、家族や友達への感謝。

    半生を通して綴られる、静かで確かな言葉たち。

    解説

    文章を書くのは小学生の時から好きでした。授業で描く絵も好きでしたが、高校の時に出合ったデッサンで、絵を描くことを挫折。その後、2001年に「写真」と出合います。

    2006年に友人と二人展である写真展『cloudy』を開催。曇り空をテーマに、風景写真で構成した展示を行う。当時の写真の活動は、写真雑誌や新聞社に取材を受けて記事が掲載される。

    2011年より写真をコンセプトに、Instagram(@sasao_t)。2020年のコロナ禍では「読書記録」をInstagram(@86bunko)でしていく内に、noteや当blogで文章を書くようになります。のちにそれがエッセイであり、文学の一種類であると知って、嬉しくて書く気が増しました。

    2025年に、文芸評論家でエッセイストの宮崎智之氏の掲げる「随筆復興」のシーンに出合います(当blog記事:「随筆復興」のシーンの入口で)。2026年1月より宮崎智之エッセイ講座を受講(NHK筆力を高める エッセイ講座)一期生。受講しながら並行して、この『曇り空の場所』を執筆しました。

    「もくじ」より

    収録エッセイ(一部) 全25篇

    • 少年の地図
    • 自分の文章にまだ名前がなかった頃
    • 曇り空の場所
    • 本当に好きだったひと
    • 筆跡のようなその人固有の文章

    曇り空を抱えながら歩いてきたあなたへ贈る一冊です。

  • 歩くようなエッセイ

    歩くようなエッセイ

    自分が書くエッセイを端的に示すコピーが欲しかったので、自分で考えました。
    それは、「歩くようなエッセイ」です。
    自分の書くエッセイは、穏やかな文章で、自分を取り巻くことを自分のペースで、歩くように書いたエッセイが中心です。それを「歩くようなエッセイ」と名付けました。

    エッセイを意識して書くようになってから、まだ2年弱ですが文章を書くようになってからは随分時間が経ちました。5月4日に開催される文学フリマ東京42では、初エッセイ集「曇り空の場所」を初頒布します。そこにもやはり、「歩くようなエッセイ」を展開しました。

    文学フリマの会場で、お客さまからの「この本は、どんな本なんですか?」という問いに、「歩くようなエッセイです」と簡単に答えることができたらいいなと思っています。オリジナルでシンプルなコピーがずっと欲しくて、考えていました。初エッセイ集「曇り空の場所」が完成した時に、ふと降りてきたのです。

    これからも、激しいことやハラハラすることを書くことは少ないと思います。自分の大事なコンセプトとして、穏やかな呼吸で「歩くようなエッセイ」を書いていけたらいいなと思っています。

  • 自己表現と支えられた孤独

    幼い時に描いた絵から始まり授業での図工、そして美術の時間は自分しか持ちえない自分のセンスを発揮する場でもあった。高校を出て美術とは関係のない大学に進学した。卒業してアパレルの会社に就職した。そこでMacintoshというパソコンに出合い、再び自分のセンスを表現することに目覚めてしまった。

    自分のセンスを表現するというのは内なる世界を表現する、つまり自己表現するということだ。それは、美術に始まりその後のwebデザインという仕事にも繋がった。そして25年前に趣味として始めた写真という芸術にも出合った。いずれも自分の内面を、内側から表に出すものだった。

    長く続けている自己表現と孤独について書きたいと思う。

    自分は早くに父を亡くし、そのあとは母親と兄と共に生活を育んだ。父も美術的な感性があった。母もその感覚においては、父と同様それ以上もものがあったと思う。

    そんな母は、自分の自己表現である絵やデザインや写真についての一番の理解者だった。作品の善し悪しに迷った時、良い作品ができた時に、よく意見を聞いたものだった。そして特に良いものが出来た喜びを分かち合うのは、理解者である母だった。

    福永武彦氏の「内なる世界」というエッセイには、こう書かれている。

    例えば母親が死ぬという経験。それは誰でもが知っていることだし、一つの普遍的な悲しみとして納得してしまえばそれで済む。が、理性がどのようになだめようとも、母親は常に一人であり、この一人はかけがえがない。その場合に、子供の方の愛は、母親が死んだからといって消滅するわけでない。いな、それはこうした契機によって、一層高まり、鋭く心を突き刺す。しかしその時の傷は、自分はまだ母親を愛しているのに、それに応えてくれるべき愛がないということだ。子供の心の中に母親の愛の占める部分はちゃんと残っているのに、肝心の愛は欠け落ちてしまった。その空虚感が、孤独となって彼の意識を鎖してしまう。

    昨年の夏に自分は良き理解者であるたったひとりの母を病気で失った。それでも自分は自己表現を今も続けている。こうしてエッセイを書くことも、大切な自己表現だ。それは、美術的なものに留まらない。自分の内面から発せられる言葉、エッセイであっても自分だけの感性を表すことになるのだ。

    福永のエッセイには、まさに今の自分にとって必要なことが書かれていた。

    母という良き理解者と併走しながら自己表現をしてきたはずだった。しかし今の自分は、死によって母の愛が欠け落ちてしまったかといえば、そうは言えないと思う。母を失ってしまったが、自分の中に宿す表現の源は生みの親である母の存在を感じさせるものだからである。現在家族は自分ひとりではあるが、自分の内に母そして父ふたりの心を内に秘めている。そのふたりを失ってしまった今であるが、その記憶がある限り共に伴走している気持ちである。

    福永はこう結ぶ。

    人は愛があってもなお孤独であるし、愛がある故に一層孤独なこともある。しかし最も恐るべきなのは、愛のない孤独であり、それは一つの沙漠というに過ぎぬ。

    想像していた母が亡くなったあとの凍るような孤独と、実際にかけがえのない母を亡くしてから向き合った現在の自分の孤独。今感じているのは、それはそのような冷たい孤独ではなかった。それは生前の母の愛がそれに余るほどの熱量を宿していたからなのだろう。自分はひとりきりになってしまったが、その温かみを今でも内面に感じるのだ。それは決して沙漠ではないはずだ。

    参考文献:宮崎智之氏が編まれた『精選日本随筆選集 孤独』

    楽天ブックス
    ¥1,100 (2026/01/29 12:19時点 | 楽天市場調べ)
  • 淡いXmasソングを聴きながら

    幼稚園の頃は、教会幼稚園に通っていたのでXmasとは無縁ではなかった。高校の時の彼女がクリスマスイブ生まれだった。思い出深い記憶もあいまって、この時期のことは他人事ではない気がする。子供の頃から大人になってもXmasを楽しんだ。独身なのでケーキを買って祝うようなことも段々しなくなったけれど、今はXmasを味わうのに素敵なものがある。

    懐かしい音楽が入ったカセットテープである。

    3年ほど前から中古の音楽が収録されたカセットテープを購入して、よく聴くようになった。レコードは傷をつけてしまうのが苦手で手は出さなかったのだが、x(旧twitter)のタイムラインでテープが懐かしく再生される姿の動画を見た時は胸がぎゅっとなった。再び流行りだしたカセットテープが、気軽に専門店から通販で購入できると知った。

    1988年に初めてCDラジカセを買ってからも、しばらくはカセットテープを聴いていた。その内、MiniDiscつまりMDが出回るようになるとTSUTAYAから借りたCDのダビングは、それに取って代わっていった。

    段々と便利になっていった。しまいには、データで音楽を聴くようになってしまった。

    歴史が逆戻りしてリバイバルするのを、フィルムカメラの復活で知っていた。だからもう戻るはずのないと思っていたカセットテープが、今でも再生できると知って喜んだ。

    以来、カセットテープの通販専門店で、自分が若かった頃の音楽テープを中古で買って聴くようになった。再生するためのカセットデッキは、オークションで購入したり新興ブランドが今の技術で作った新品のポータブルプレーヤーを買ったりした。

    中でも、Xmasソングが入ったカセットを買って迎えたXmasシーズンは、心が和んだ。自分自身は音を聞き分けるほどの耳は持っていない。けれどクラッシックな聴き方で聴くアナログな音楽は、デジタルに慣れた自分にとって身に染みるほどだった。

    あれから3シーズンくらいが経ち、Xmasソングのテープは6本に増えた。

    歳をとって懐かしいテープの音楽を聴くのはまた趣がある。進歩続ける技術には、実現できないものがある。ファッションも10年周期で、同じようなスタイルが流行る。今日まで、再生に耐えうる製品を作っていたのだから、ブームが再燃して復活してよかった。

    世代によって誰にとってもタイムマシンのような機能を果たすアイテムがある。それが息を吹き返すことで、淡い頃がただ蘇り安らぎになる。

  • 花が好きな母が買ったことがきっかけだった

    首都圏から地方へ10年前に移住して出会ったお花屋さんのお花を今年も購入した。Xmasに合わせて、花束をリクエストして作っていただいた。そのお花屋さんは、10年前に市場に出店されている際に花が好きな母が選んで買ったことがきっかけだった。もし母がお花が好きでなかったら、その市場を通り過ぎてしまっていたらその交流はなかったのである。

    自分は、2001年以来長年写真を続けている。特に好んで風景や植物を撮ることが多いので、植物に関しては関心がある。花の名前は、詳しくないのだがビジュアルは好きで、好みの植物をよく撮ってきた。

    そのお花屋さんは定期的にイベントや店舗に出店されて、snsで情報を得ては訪ねるようになった。買い物をするほんの僅かな時間に話をして共通の話題があると自分は嬉しかった。一口に10年と言っても友達同志でも、交流を続けるのは難しいと思う。今、思えばお花が好きな母が縁を持っていたのだと思う。

    今年も師走になり、少し冷え込みXmasが近くなった。先日、その場でお花屋さんに意向を伝えて作っていただいた花束を部屋に飾った。慎ましく季節の移り変わりを感じる。今年もいつもの季節がやってきた。

    そして、今日は髪を切りさっぱりと新しい年を迎える準備が整っていく。気持ちはゆったりしている。今年は、夏に母を見送ったのでシンプルな年末年始を迎えることになる。忙しかった今年を振り返りながら、ゆっくり時を過ごしたい。

    楽天ブックス
    ¥1,100 (2025/12/11 18:51時点 | 楽天市場調べ)